昭和43年5月16日  夜の御理解



  何の道でも同じだろうけれども、自分のこの反省というか、自己反省がなされないなら進歩はないと、あの(活動伊田台?)というのがあっとりますですね、あの昔の(おない松乃助?)、あれはあのお道の信心にいつも関連があるからあれ見せてもらうんですけれどもね、今日はあの松乃助が、もう大変人気が出る、目玉のマッチャンというその、お~とにかくまあ全国風靡した人ですね、ところが非常にその、「自分はその目玉のマッチャンで良いだろうか」と、と言うてその自分の技量の事を演技の事を、「これではならんこれではならん」という反省をするところがございますが、いやなるほど、お~その人気はある、ね、けれどもそれだけでのもし人気であるとするなら、それはまあほんなこっちゃないというような、そのまあ芸能人は芸能人としての、いわゆるその自覚から、それに鋭い反省が超えられるわけでしょう、ね、ちやほやされておる、「素晴らしい素晴らしい」と言われておる、ね、そういう時にそのややもすると反省を怠る、それではやはり進歩がない、合楽の場合でもそうである、ね今ある意味合いでまあ「素晴らしい素晴らしい」と色んな角度から見てまあ、そういう声を実際にお世辞じゃない本当にそう言うて下さる、わけなんですけれども、私はそれをいつも思うのです、「これで良いだろうか」と、ね、ただそういう評判だけでは、本当に評判のぼせにならん、本当にあの信心を鋭く、う~反省さしてもろうて、斬新な生き生きしたものがそこから生まれてこなければならん、そこで私はその思うけれど、今日もあの「ねがい」が出けてきた、その構成をやっておりますが、それが出けておるそれを見せて頂きますと、今度は私の、う~ん、丁度福岡の修行中の時分事が書いてある、実際とうっ、だいぶん違うようですけれども、本当は実際の方が、有り難いのだけれど、何か違った風に、意味が違ったように書き崩してある、「師とアイスキャンデー」というのである、あの、私があの、外から丁度夏の暑いまあ盛りであったが、帰ってきた、そしたら家内が三人の子供を前にしてえらい怒っとるとです、「もうあんたどんばっかりはあきれてしもうた」っち言うて怒りよるとです、「どうしたのか」ち聞いたら、その、近所の子供達が皆キャンデーを買うから、キャンデーがまあ欲しそうにしとるから、まあなら五円のを一本買うておいでっち、でそれを三つにわってやるつもりだったらしい、それがその豊美が十円玉を持って行っとったもんだから、向こうでも十円のと思うて十円のを渡したらしい、で十円の一本のを買うてきてその、三つに、それでまああの、「あげん言うとったとにどうして五円のつば買うてこじゃったの」、もう大きさはあんまり変わらなかったんです、五円のも十円のもね、ですからその五円ので良かったわけなんです、それを子供なもんですから、その十円のを渡されたから、十円のを一本買うてきて、そしてその、まあ家内から怒られたとこじゃった、ね、それで私は本当にそれを聞いてから、まあ本当にまあ何と言うその、まあ厳しいことであろうかとこう思うたんですけれども、なるほど五円あれば、晩のおそうさいと言うかね、まあたくあんの一本ぐらい一本ぐらい買えたんですよきっと、それでそのまま私御神前に出らせて頂いてから、あのお礼を申させて頂いたことなんですけれども、本当にあの親が不徳のために子供達に、この暑いのにキャンデーの一本づつも与えられないということは親として本当に相すまんことなんだけれど、けれども「おかげで神様子供達も一緒に修行さして頂きまして有り難うございます」という、もうそれこそお礼の涙に暮れたことでございました、ね、そこんところがあの、まあそんな風に書き合わしてないですけれども、だいたいは今私が申しましたのが本当な事です、ね、だから私例えばそういうような時代があったということ、それこそ薪一本でも買ったことない、下駄一足でも私が荒田な教会にお参りをする行き戻りの中に履き物を片一方、ちぎれてないのを落ちておるとそれを必ず拾うてくる、そして貯めておくとそれが一足になる、子供達もあの同時、豊美が大名校に受かれておったが、(?)な下駄を履いて行くのはあの人一人じゃった、勿論その他、その当時あるはずがない、そういうような、あの状態の中に修行さして頂いた、薪なんかはあの豊美と勝彦が、もう本当に福岡で薪を拾うて回ると言うと嘘みたいだけれども、あそこはこの海辺でしたから、船が、炊き物船やら着く時でしょうね、もう結構あの人達拾いにいきますと、その日一日炊く分ぐらいは、じゃなくてもう何日も拾いっ、炊けるように拾い貯めてあっていつも、もうこれは子供達の学校から帰ってくると、仕事であった、というような時代をですね、私共通らして頂いておるが、そういうような時分の事を思わして頂くと改めて、生なましい、言わばこれで良いかという反省がなされるわけです、「これで良いだろうか」と、ね、私はこの反省がないと駄目だとこう思うんですね、ね、そういう意味で通るとこを通らして頂いておるということは有り難い、私はそういうその、いわゆる目玉のマッチャン、ねんの、そのが言うところですね、それこそ全国ふうりするように人気が出た、しかも目玉一つで評判がついた、ね、けれどもその目玉一つで皆を、その人気を役しておる、「これでいいだろうか」と、ようにそのジレンマに落ちる、苦しんでおるような場面を見てから思うのです、信心とも同じこと、いくらちやほやされるようなおかげを頂いても、いっつもそれぞれ「これで良いだろうか」と「これで良いか」と、反省されなければならん、そこからね、そこに次の信心が、言わば生まれてくるのである、ね、とりわけて例えばうんなら、あ~、私共の本当に修行の真っ最中の時代の事を思わして頂くと、ね、改めて「はぁこれで良いだろうか」というような思いがいよいよ強うそこを感じる、それが子供達の上にでも、そういう事があっただろうかと、忘れられるような事があってはならないために、私はこの今書かれておる、伝記風の物、これはもう真実そのまま一つ書いてもらいたいという風に私は思うとりますけどね。                         どうぞ。